豊郷小学校・校舎改築問題の経緯と最近の動き

--変貌する豊郷小学校の原風景・はたせるか現校舎の保存活用--


「建築とまちづくり」・6月号投稿論文を再編 (古川博康)
【概要】
 現在の豊郷小学校は、1937年に地元出身の古川鉄治郎の寄附、ヴォーリズの設計、竹中工務店の施工により建設された、滋賀県で最初の鉄筋コンクリート造によるモデルとも言うべき小学校建築で、親しみと温もりのある校内環境を有する近代的で格調の高い建築として建築関係者、教育関係者の間で広く知られている。本校舎は、近年では、数少なくなってきた昭和初期の歴史的・文化的な建築として、また教育学の研究者の間でその優れた教育環境が、高く評価されている。
 この小学校の落成式(昭和12年5月30日)には当時の甲南小学校・堤 恒也校長と生徒2名が出席していた。落成式では伊藤忠兵衛氏、竹中藤右衛門氏が挨拶をし、平生釟三郎氏も後日ここを訪問しており、甲南小学校とはゆかりが深い。 
 この豊郷小学校の校舎保存運動が大きくクローズアップされたのは2002年末のことである。12月19日、大津地裁が「校舎解体禁止の仮処分決定」をした直後、12月20日、校舎解体・新築を早急に実施しようとする豊郷町長・大野和三郎氏自らが指図をし、業者に窓ガラスを割らせて校内に侵入させ、更に校舎の窓ガラス、天井、階段の一部を壊し、窓枠を外すなどの解体工事に着手するという前代未聞の事態を発生させた。住民グループは校舎を守るために、校舎へ泊り込みに入った。その後、文部科学省(河村建夫副大臣)の仲介で校舎保存は決まったものの、現校舎は「危険校舎」のレッテルを貼られたまま放置され、児童は3学期よりプレハブ仮校舎での学習を余儀なくされた。大人のエゴが児童を環境の悪いプレハブ校舎に追いやったのである。
 この非常識極まりない大野町長は、住民投票によって失職したが、出直し町長選で再選された。原因は町長選に3人が立候補、「校舎の改修保存活用」を公約した2人の候補がお互いに得票のつぶしあいをしたためである。
 再選された大野町長は今、現校舎とは運動場をはさんで反対側に新校舎の建設をするため、既に運動場の地ならし、木々の伐採など造成工事を着々と進めている。この光景を眼前にして、町民や卒業生は目にくやし涙しているという。そして住民たちは、「新校舎建設阻止」、「大野町長の犯罪的行為(2002年12月20日)糾弾」のため、再び立ち上がろうとしている。
 以下に、豊郷小学校創建の歴史、校舎保存問題の経緯、新校舎建設とその問題点、今後の課題について記す。皆さまのご理解の一助となれば幸いである。
【主な参考・引用文献】
◇ 『豊郷小学校は今』(本田清春・古川博康 サンライズ出版 2003年2月)
◇ 『豊郷小学校の歴史と人びと』(古川博康 2003年1月)
【目次】
1.豊郷小学校の原風景 ―古川鉄治郎の理念 ・ 当時の設計・施工技術
2.町側の校舎改築計画
3.住民側の保存再生運動 司法判断 ・ リコール住民投票 ・ 出直し町長選 ―
4.最近の動き、今後の課題・あり方



1.豊郷小学校の原風景

■ 豊郷小学校創建の背景
明治5年(1872)の学制の公布によって、翌6年5月1日、豊郷村四十九院村の唯念寺に「成文学校」が創設された。明治19年(1886)4月、従来の成文学校を「尋常科至塾学校」と改め、明治20年には新校舎を建て「至熟尋常小学校」が新築開校され、学校としての態勢が整った。明治25年(1892)4月には新小学校令により「豊郷尋常小学校」と改称された。当時の修業年限は4ヵ年であった。明治27年4月、修業年限2ヵ年の高等科を併設し、明治29年4月、高等科の修業年限を更に延長して4ヵ年とした。児童数も年々増加し、明治30年には校地を拡大し、その後も増築が繰り返された。この木造平屋建て校舎の老朽化と学童の増加に伴って、昭和初期となり校舎の改善が要望されていた。昭和10年頃には児童数が600名に達し、もはや増築する余裕もなく、校舎の移転・改築の必要に迫られ、さらに校区の分離の問題もからみ、改築か移転か、修理か種々対策が検討されていたが、予算の問題もあって解決の目処はたたなかった。当時の木造平屋建て校舎(一部、2階建)は、現在の校地の北方にあり、その一部(本館2階建て部分(図1参照))が残っている。

図1 明治時代に建てられた旧校舎正門および本館

図2 大正時代の旧校舎での運動会

■ 寄贈者「古川鉄治郎」の理念
こうした豊郷村の状況を聞いていた古川鉄治郎(1878〜1940)は、伊藤忠兵衛(1886〜1973)に「私はこの年(満57歳)になって漸く余剰の財産をつくることができたので、何かよいことにこれを使ってみたい」と自分の心情を打ち明けた。伊藤がその内容について聴いたところ、古川はここで初めて「実は豊郷村に小学校を寄付、建設してみたい」と、次のように自分の考えを話したという。(昭和15年5月30日 伊藤忠兵衛氏落成式挨拶より)
◆旧校舎はその位置が村の一方に偏し且つ大分腐朽して早晩改築すべき必要に迫られている。されど一面、村財政の現状を見るに打ち続く農村の不況で到底之が改築は容易の事ではない。
◆現在の豊郷村としては生産事業を以って発展を期するの余地が少ない。即ち生産事業を興して之によって村の振興を図るには余りにも要件がととのっていない。
◆それよりも有為の人物を教育の力によって養成する人物生産の道を講じることが郷土に貢献する上に最も適切有効であると信じる。
◆而して優れた人物の養成には、環境としての学校設備の完成を急務とする。依って茲に町中央に学校を建設して之を村に寄贈したいと考えている。  
昭和10(1935)年の早春、古川は当時の校長山中忠幸に「寄付をしたいのでその教育ならびに設備規模の大要を知らせてほしい」と話した。「せっかく造るのなら鉄筋コンクリート造にしたい」、と古川が言うので、山中は阪神間の主な学校施設を視察し、概ねその構想を練り、教育ならびに設備規模の大要を報告した。昭和10年5月12日過ぎ、古川鉄治郎より村岸峯吉村長宛に1通の手紙が届いた。寄附の申し出である。この古川からの寄附の申し出を村は感激裡に了承。議会は満場一致で寄付を受け入れ、新校地への移築計画が具体化した。

■当時の設計・施工技術水準
校地を決まると直ちにヴォーリズ建設事務所に設計を依頼した(昭和10年早秋)。また校舎設備・備品等については学校長と設計者に一任した。当時の学校長、山中忠幸は後日「私は校地おける校舎、花壇、農場、体育施設、教室の配置、机椅子に至るまで構想図面の作成に没頭した。校地および校舎の景観、校地周囲の溝や道路、正門前の完全舗装は古川さんの構想によるものだった」、「世界を相手に活躍する大国民をつくるには、大きくてどっしりした教育の場を与えてやらねばならぬ、との一念でした」と述べている(「100周年記念誌」より)。
設計がほぼ固まると、古川は直ちに工事入札を行い、竹中工務店が請負業者に決まった。昭和11年2月に建築認可申請を行い、3月9日に着工。施工は竹中工務店(社長・14代竹中藤右衛門)により行われ、この大普請に対して村人も手弁当で手伝ったと云われている。


(上・写真)
図3:校舎全景(建設当時の校舎、1937年撮影)

(左・写真)
図4:校地全景(1962年頃撮影の上空写真)
敷地面積:12,110坪、手前:実験農園、中央:本館校舎、左:図書館、左上:青年学校、右:講堂、右上:体育館、プール)

大正12年(1923)の関東大震災以降、昭和12年(1937)頃までの鉄筋コンクリート建築は戦前の日本の鉄筋コンクリート建築技術の最高峰にあったと云われる。設計・施工技術はもとより、資材のコンクリートは使用する砂利、砂が川から採取され、塩分を全く含まない高品質なもので、現場監理も厳しかった。豊郷小学校のそれは犬上郡を流れる愛知川から採取された。
昭和12年7月に大日本帝国軍が盧橋溝事件を起こし、日中戦争に突入、同年8月には建設用の鉄鋼資材の統制がはじまり、その翌年あたりを戦前の建築生産のピークとして急速に建築文化の花は萎れていったのである。
豊郷小学校はその最盛期に建築された、滋賀県で最初の鉄筋コンクリート造の学校建築として、またヴォーリズが敷地計画から全体設計を行った唯一の学校建築として貴重な歴史的、文化的遺産であると高く評価されている。
校舎の内部には暖かく、ゆったりとした雰囲気がある。階段の手すりの「ウサギとカメ」からは古川の思い入れも伝わってくる。南東側の広い運動場(図4参照)は、自然空間への大きな広がりをみせ、学び舎から世界の舞台に羽ばたこうとする豊郷の子どもたちにかける寄贈者の夢、思いが込められているかのようである。

図5 広い廊下(幅2.9m)と明るい教室
図6 ウサギとカメの階段
図7 床に傾斜のある講堂(2階席から撮影)
図8 アールデコ風の図書館


2.町側の校舎改築計画


■ 全面保存から一転、解体新築へ
1937年5月30日に落成開校した豊郷小学校は当時「東洋一の小学校」、「白亜の教育殿堂」と称された。そして、1万数千人の卒業生を送り出し、また町民からも親しまれ続けてきた。しかし、1995年1月に発生した阪神淡路大震災は状況を大きく変化させる「引き金」となった。
1996年4月、当時の豊郷町長・戸田年夫氏は町内の公共施設の耐震診断を実施させ、豊郷小学校については耐震補強が必要との報告がなされた。町は「豊郷町教育施設整備協議会」を設置、協議会から豊郷小学校の大規模改修案(11.3億円)と改築案(20.6億円)が提出された。そして、1998年6月に協議会は「校舎の永久保存」の結論を出した。これに呼応して、町教育委員会は町内在住の20歳以上、1000名を対象にアンケート調査を実施した。その結果、豊郷小学校については、全面保存45%、部分保存36%、新築はわずか5.7%であった。これによって町民の大多数が豊郷小学校の保存を望んでいることが明らかになった。

■ 町長「講堂の解体」を表明、住民側大津地裁に「差止めの訴え」
しかしながら、1999年11月、任期満了に伴う町長選が行われた。4人の立候補者のなかで大野和三郎現町長が僅差で当選した。この選挙を境に状況は一転し、小学校校舎新築の動きが始まった。夏原四郎同窓会長名、谷川辰雄町議会議長宛の「豊郷小学校等の改築を求める請願書」(2000年9月26日付)が10月10日の町議会本会議に提出され、翌11日の本会議では賛成多数で「採択」された。2001年5月24日、第1回「豊郷小学校など改築検討委員会」(町長の私的諮問機関、以下「検討委員会」)が開催され、町側は「校舎は、建設後64年が経っており、鉄筋コンクリートの耐用年数50年を遥かに越えている(不適格建物)ので、校舎の解体・新築計画が必要であり、幼稚園の複合化と併せて検討する」と発表した。8月11日の検討委員会では、専門家不在のなかで採択が行われ、「図書館だけを残し、本校舎および講堂を解体・新築する」こととなった。10月15日の検討委員会では、委員投票の結果、設計委託業者が森野設計事務所に決まり、翌々日に4400万円で設計業務契約が締結された。
12月6日の定例町議会では、講堂解体工事費5500万円の補正予算が可決され、町長は年内の講堂取り壊しを表明した。一方、住民側は一貫して校舎および講堂の取り壊しに反対し、12月12日、大津地裁に「講堂の解体工事差止めの仮処分申請」を提出、「取り壊しの凍結と再検討」、「保存再生」を呼びかけた。そして、豊郷小学校改築問題は全国的に報道され始め一躍世間の注目を浴びるようになった。


3.住民側の保存再生運動 ―司法判断、リコール住民投票、出直し町長選―

■ 「考える会」の発足とその活動
2001年10月12日、「豊郷小学校の歴史と未来を考える会」(以下「考える会」)を正式に発足させ、第1回シンポジウムと見学会を開催、ヴォーリズ建築の研究者で大阪芸大教授の山形政昭氏、建築構造学が専門の京都大学講師の西澤英和氏、弁護士の吉原 稔氏をパネラーに迎えた。山形氏はヴォーリズ設計の関西学院大や神戸女学院などが阪神大震災に耐え、ヴォーリズ建築の優秀なことを紹介された。西澤氏は「鉄筋コンクリートの建物は、戦前の建物が戦後のものに比べて遥かに頑丈で、建築資材は第1級の建物である」と称賛された。その後も頻繁にシンポジウムと見学会などを開催、卒業生や専門学者の感想を聞いた。教育関係学者からは「これほど立派な規模で現在に残る小学校は見たことがない。歴史的な価値も大きく、住民に愛されてきた校舎を壊そうとする行政側の発想が理解できない」、「豊郷小学校は装飾性も高く、学校環境自体が情操教育の面から見ても優れている。全面改築に至った経緯には不透明な部分が多すぎる」。また日本建築学会などの建築関係学者からは「60年経ったから危険という考え方はおかしい」、「教育に必要な機能や設備の充足を図り、町民や卒業生の深い愛着や思い出が残る場として、豊郷小学校の改修保存を考えるべきである」、「現校舎は教室間の間仕切りを撤去すれば、オープンスペース化できる」「要所に補強部分を設けることによって容易に耐震性を向上できる」など、改修保存を積極的に支持する有識者、専門家の声は、「考える会」の「保存再生」活動活性化の力強い精神的な支えとなった。

■ 司法判断に叛く町長の暴挙、高まる「保存活用」の声
住民側は「講堂の解体工事差止めの仮処分申請」の提出と合わせ、12月29日からは街頭での訴えと大津地裁宛の積極的な署名活動を行い、1月17日、総数4372名(うち有権者約1200名)の署名を大津地裁に提出し、2002年1月24日、「講堂解体工事差止めの仮処分命令」を勝ち取った。この大津地裁の決定は、「豊郷小学校にその文化的価値を認め、町長に町の財産の管理運用方法に適切さを欠く」との厳しい判断をした画期的な判決となった。6月14日には町長の異議申立てが却下され、ようやく講堂は保存されることとなった。
しかしながら、10月初め、町は校舎解体のための造成工事に着手、イチョウ並木をなぎ倒すなど、大野町長の暴挙は留まるところを知らず、12月19日に大津地裁から「校舎解体工事差止めの仮処分命令」が決定した直後の12月20日には、校舎の窓ガラスを業者に割らせ内部に侵入させた。この町長の司法判断を無視した暴挙は世間の非難を浴びた。また10月15日、森野設計事務所(森野武雄社長)の耐震診断データの改ざんが発覚し、耐震診断結果を「意図的、独善的に危険」としたことは現在も大きな問題となっている。
近畿の弁護士で組織する「豊郷小学校現地調査団」(京都弁護士会・近藤忠孝団長)は「大野氏の行動は法治主義の根幹にかかわる重大な問題」としてアピール声明文を発表した。また日本建築学会(仙田 満会長)は、豊郷町に対して「多様な文化的価値があるとされる校舎の詳細調査を速やかに実施され、建築群と校舎環境を含めた保存活用の検討に入られますように要望する」と、また県知事に対して「町では本館校舎等の保存を表明されましたが、一方で新校舎の建築計画が進んでいる」ことを指摘、「関係者によって多様な文化的価値のある現校舎と校地環境の保存活用計画が速やかに実施される」ことを要望し、『豊郷小学校校舎の保存活用に関する要望書』が提出(2003年1月28日)されている。また日本建築家協会(大宇根弘司会長)からも同様の要望書が提出されており、いずれも公益法人として校舎の保存活用には協力を惜しまないとしている。
町側は12月20日以降、教育現場の混乱などを理由に豊郷小学校の見学を実施させなかった。児童らは3学期からプレハブ仮校舎に移り、本校舎は教育財産から町管理の普通財産に切り替えられた。町や県の姿勢を問いただし、保存活用を望む声は日増しに高まっていった。

■ リコール成立、住民投票で失職した町長が再選
2003年1月9日、リコール署名数1892名(有権者の1/3は1886名)をもってリコールが成立、1月10日リコール本請求を提出し、3月9日には住民投票で、困難な数々ハードルを越えてようやく大野町長を失職させるに至った。この住民投票で住民が示したのは、「校舎を新築した方が改修するより多くの補助金が町に入り、地元の業者にとってお金になる」という土建行政に対する「NO」である。お金では買えない校舎への愛着心や思いを住民は重視したのである。「大野和三郎氏は町長をやめよ」がまさに民意であった。この民意と云える町民の町長の解職に賛成する2450票(反対は2070票)を重く受けとめ、大野和三郎氏は今回の出直し町長選に立候補するべきではない、と考えた人たちは多い。しかし、住民側が候補者の一本化に失敗したため、4月27日、町長の再選が実現した。選挙結果は大野和三郎氏(前町長)2204票、豊郷小学校の保存活用を訴える2人の候補者の得票は伊藤定勉氏(元町議)2149票、戸田年夫氏(元町長)265票であった。

4.最近の動き、今後の課題・あり方

町長は再選後直ちに、5月13日、新校舎の建設を推進する「豊郷小学校等建設委員会」(町長の私的諮問機関、町議会議員13名、PTA会長他で構成、以下「建設委員会」)を開き、現校舎の改築計画を変更した新校舎の建設計画、実施設計案を公表した。5月20日の臨時町議会では、豊郷小学校の新校舎を建設するための2002年度予算約15億4900万円を2003年度予算に繰り入れることを報告し、賛成多数で承認された。町は6月15日着工、2004年完成を目指すという。
一方、「新建築家技術者集団(本部:東京)」(滋賀支部 水原 渉代表幹事)は5月12日、新校舎建設計画が余りにも多くの問題(日照問題、学校敷地計画など)を含んでいることを指摘するとともに、「歴史的価値・建築文化的価値の高いヴォーリズの校舎をリニューアルして校舎として使用することを推奨する」、そして「緑豊かな校庭、明るく広々した運動場。そこに子供たちが元気に走りまわっている・・・このような情景を彷彿とさせる学校にしたいというのが我々の希望」と新聞発表した。また「学び舎を守る会」(本部:彦根市、北村聖子代表)も同日記者会見をし、耐震診断および新校舎の設計を行った森野設計事務所(草津市)の「耐震診断書」および「新校舎設計」の問題点を指摘し、耐震診断のやり直しと、現校舎の改修活用を提案した。
また現校舎について、大阪芸術大学で保管されている原建築構造設計図に基づき、本年春に最新基準(2001年改訂版)耐震診断プログラムを用いて耐震診断がなされた結果、1、2階は全く補強が要らないこと、3階部分は軽微な補強で容易かつ安価(補強工事費も数百万円)に改修できることが明らかにされています。すなわち、豊郷町より「危険建物」の汚名を着せられて教育施設として用途廃止にされた本校舎は「危険建物」ではなく、「歴史的文化的な価値ある学校建築」として容易に再生でき、更に小学校建物として今後とも十分に活用できると言える。
豊郷小学校の保存再生活用を推進する「考える会」本田清春代表は、計画に欠陥の多い校舎新築は将来に禍根を残すとし、今後これらの活動グループとも連携をとり、新校舎の建設に反対し、「現校舎の改修再活用」を官公庁、公益団体に訴えるとともに、全国的な規模での活動展開を行ってゆきたいと話している。

欧米では古いものを大切にして保存してゆこうとする固着した基本的な考えの基に、100〜200年と使い続けられている建物はざらにある。
しかし、戦後の日本の建築物に対する考え方は、古くなったものを次々に壊し、新しいものを造り続けることが良いとする発想だった。小学校を解体し、巨大な廃棄物にしても痛痒も感じなかったのが従来の町づくりだった。しかし、それでは人々のかけがえのない記憶や思い出が失われてしまうことに豊郷町の人々は住民運動の体験を通して気付き、行政に異議申し立てをした。 豊郷小学校の校舎は親、子、孫という異なる世代結び付け、地域の一体感をつくってきたのである。大量生産・大量消費・大量廃棄の時代はすでに終わった。(西川幸治・滋賀県立大学長 朝日新聞、4月15日)
これからの時代は単に利便性を追求するだけではなく、歴史的、文化的なものを生かして、地域の新しい魅力、価値観を創造することが求められる。由緒ある建物を登録文化財として保存活用する場合や、学校施設として再生活用する場合には第三者的な機関、専門家と、住民、行政が知恵を出し合い、新しい「町づくり」に協力することが大切である。
今回の豊郷小学校問題は、教育環境の保全、歴史的景観の保存、文化財建物や学校建物に対する政府補助金制度などともからみ、官公庁、公的機関の今後のあり方を問いただすための一つの契機でもあると考える。


図9 変貌する豊郷小学校

図10 新校舎建設計画の問題点
【参考・引用文献】
◇ 『豊郷小学校は今』(本田清春・古川博康 サンライズ出版 2003年2月)
◇ 『豊郷小学校の歴史と人びと』(古川博康 2003年1月)
◇ 『伊藤忠兵衛翁回想録』(伊藤忠兵衛 昭和55年頃)
◇ 『豊郷村史』(藤川助三 昭和38年9月)
◇ 『更正豊郷』(宮崎丈助 昭和12年8月)

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