祖父は学校を寄贈し、卒業生・地域住民は校舎を守った

43回生 古川博康


 1.まえがき
 
 琵琶湖南側の田園地帯にある人口7000人余の小さな町、豊郷は、近江商人 伊藤忠兵衛、古川鉄治郎の生地でもある。新幹線で名古屋から京都に向かう途中、米原を過ぎて5分ほど走ると、右側の窓に(財) 豊郷病院(伊藤長兵衛が寄付)の看板が見え、その直後、寺の山門に続き、豊郷小学校の新築校舎が見えてくるが、実はその向こう側に、戦前1937年より長年に亘って、住民に愛され親しまれてきた、米国人ヴォーリズの設計による豊郷小学校がある。
 この小学校、2001年になって校舎改築問題がにわかにクローズアップされた。町側は同年12月に解体工事に着手、02年着工、03年完成を見込んでいた。ところが、卒業生を中心とする地域住民が、同年10月、「豊郷小学校の歴史と未来を考える会」(本田清春代表、以下「考える会」と略称)を結成し、12月12日、「講堂解体差止めの仮処分申請」を大津地裁に申し立てた。 このとき以来、私は一貫して「考える会」の校舎保存運動を支持・支援し、町側の校舎改築に反対してきた。
 このようなことから、今回執筆を依頼されたので、祖父古川鉄治郎の生い立ち、伊藤忠兵衛翁との出会いから寄付に至る経緯、豊郷小学校建築の意義、潰されかけた校舎を守った卒業生・地域住民の保存運動などについてまとめた。

 2.伊藤忠兵衛翁と古川鉄治郎
 
 鉄治郎の少年時代
 古川鉄治郎(1878〜1940)は、明治11年2月、滋賀県犬上郡豊郷村四十九院に生まれ、明治20年4月、至熟尋常小学校(豊郷小学校の前身、当時小学校は4年制)を卒業した。明治4年に文部省ができ、明治5年に学制が公布されたが、明治政府にはお金がなく、当時の教育制度および設備は未熟なものだった。特に地方は都会に比べ遅れており、父兄もまだ教育の必要性を十分に認識していない時代であった。
 鉄治郎の兄弟は5男2女で、子沢山なため家は裕福ではなかったが、父半六は村の学務委員(現在の教育委員)などを長年務め、村では教育に熱心な方だった。しかし、兄安吉(明治5年生まれ)が彦根中学から京都第三高等学校に進学、さらに本人は大学への進学を希望したとき、父半六は「油屋に学問はいらぬ」と言い、進学を許さなかった。このようなこともあり、鉄治郎は当時、上級学校への進学をあきらめていた。

 初代忠兵衛のもとで ところが幸いなことに、明治22年早春、義理の伯父、初代伊藤忠兵衛(1842〜1903)の妻八重(鉄治郎の母つねの姉にあたる)より、大阪船場の忠兵衛のもとで、書生奉公(丁稚見習い)してはどうかとの話があった。忠兵衛はすでに大阪で成功しており、鉄治郎も親もとを離れ大阪に出る覚悟(満11歳)をした。そして、従兄弟の捨次郎(後の藤野宗次郎、近江銀行に入行)とともに初代忠兵衛のもとに預けられた。丁稚とも書生ともつかぬ生活をしていた鉄治郎にとって嬉しかったことは、家事を手伝う傍ら2年ほど学校(伯雲義塾)に通わせてもらったことだった。そこでは、小学校では学べなかった漢籍、英語、簿記の勉強ができた。また大阪では様々な新しい物事を見聞できた。
 明治24(1892)年5月、丁稚としての見習い期間も終わり、鉄治郎は中年者(丁稚の上)として伊藤本店(主人 伊藤忠兵衛)に入店した。半年ばかり近江銀行(初代忠兵衛が設立発起人の一人)に預けられ、銀行簿記や商業簿記をみっちり学んだので、銀行から戻るとたちまち計数に明るい、背丈の大きな少年店員として注目された。

 伊藤商店(紅忠)が次第に発展して行くなか、明治36(1903)年7月、忠兵衛は須磨の別邸で伊藤一族、幹部店員に見守られながら61歳の生涯を閉じた。鉄治郎(満25歳)も傍らにいた。初代忠兵衛は、浄土真宗の熱心な仏教徒で、「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの。すなわち利真於勤」という。そこには、商売道徳、信用を重んじ、自分・相手・社会の便利を図る、「三方よし」の商売道と正義があった。忠兵衛の死後、鉄治郎は忠兵衛商法とその精神をかたくなに守っていくのだった。
 
 
2代目忠兵衛の襲名 初代忠兵衛の死後、嫡子伊藤精一(八幡商業に在学、満17歳)が忠兵衛を襲名し、2代目忠兵衛(1886〜1973)となった。伊藤家の事業は財産わけされ、本家が本店・西店、分家の2家がそれぞれ糸店、京店を経営していたが、事業統一の必要性から明治41年7月に「伊藤忠兵衛本部」が、大正3(1914)年12月には同族会社から会社組織に改めるため、「伊藤忠合名会社」が設立された。さらに伊藤合名会社は大正7年12月、営業部を分割して活ノ藤忠商店(資本金500万円、社長伊藤忠三)と伊藤忠商事梶i資本金1000万円、社長伊藤忠兵衛)が設立された。

 丸紅商店と古川鉄治郎 大正9年の経済恐慌(大正パニック)は、3月の東京株式市場の大暴落に続き、主要商品は一斉に値崩れし、倒産が相次ぐ状態だった。古川鉄治郎は伊藤忠兵衛らと相談し、活ノ藤忠商店と伊藤長兵衛商店(社長伊藤長兵衛)を合併させ、この経営危機を乗り切るべきことを提唱した。そして、住友銀行の斡旋のもと、大正10(1921)年3月、滑ロ紅商店(資本金500万円、社長 伊藤長兵衛)が誕生した。今日の総合商社、丸紅の前身である。古川鉄治郎(当時43歳)はここに終生専務としてその発展に貢献したが、丸紅商店をして「百貨店の百貨店」たらしめようとする古川の夢は多角経営へと結びつき、さらに大阪支店を中心とする新分野への展開は総合商社への道を切り開いた。

 さて、古川は、実弟古川義三とともに、昭和3(1928)年4月2日、プレジデント・リンカーン号で神戸を出発し、同年11月19日、日本郵船香取丸でパリから帰国するまでの7ヶ月間、欧米視察旅行(13ヶ国)に出かける。その第1の目的は、丸紅商店を関西の呉服店から脱皮させ、貿易商社へ発展させるための外国事情の調査にあったが、何よりも古川の心を打ったものは、米国のスタンフォード大学、エール大学などにおける寄付であった。「金持ちがいつまでも金持ち、名家がいつまでも名家で続けば、貧乏人に生まれた者は立つ瀬なく、世の中不条理である。せめて一部なりとも社会公共に寄付されてはいかが。そうしたら、その財産は民族の子孫ひいては人類のためになって・・・財産が生きることになる」と古川義三は記しているが、ここに2人の兄弟は米国人の企業利益・社会還元の実践をつぶさに知ったのである。欧米視察後、古川は企業利益の社会還元という見地から、公私にわたって多くの寄付をしたが、この中の一大決意が豊郷小学校の寄付となった。

伊藤本店の店員(明治35年1月、鉄治郎は3列目、右より2人目)
初代伊藤忠兵衛翁碑にて(昭和14年4月、豊郷村八目)
(前列左 古川義三、中央 平生釟三郎、右 古川鉄治郎)

 3.豊郷小学校の建築
 
 学校寄付の理念 古川鉄治郎は、伊藤忠兵衛に「私はこの年(57歳)になって漸く余剰の財産をつくることができた。(これも貴兄の父上のおかげと感謝に耐えないが、)これを何かよいことに使ってみたいと思う」と、学校寄付の心情を次のように話したという。
 @旧校舎はその位置が村の一方に偏し且つ大分腐朽して早晩改築すべき必要に迫られている。されど一面、村財政の現状を見るに打ち続く農村の不況で到底之が改築は容易の事ではない。
 A現在の豊郷村としては生産事業を以って発展を期するには、その余地が少ない。即ち生産事業を興して之によって村の振興を図るには余りにも要件がととのっていない。それよりも有為の人物を教育の力によって養成する人物生産の道を講じることが郷土に貢献する上に最も適切有効であると信じる。
 B而して秀れた人物の養成には、環境としての学校設備の完成を急務とする。依って茲に村中央に学校を建設して、これを村に寄贈したい。
 これに対し、忠兵衛は「そんなに大きな予算(50万円)を以ってすれば学校が立派に出来すぎはせぬか」と言った。ところが、古川は「折角作るならば出来るだけ理想に近い完備した物が作りたい」との意見であった。「産を作る事は極めて容易なことではないが、更に困難なるは産をよりよく散ずる事である。まことにその崇高なる心情と意義ある金の使途に対しては敬服の外はない」と忠兵衛はその思いを落成式の挨拶で語ったという。

 学校建築の意義 昭和10年5月、古川は、豊郷村に小学校の寄付を申し出、村議会は満場一致でこれを受け入れた。それまで何かと揉め事の多かった村もこれを機に一つにまとまり、学校建設に向かって一路邁進した。こうして、ヴォーリズ設計、竹中工務店施工のもと、昭和12(1937)年5月、村中央への豊郷尋常小学校の移転新築がなった。建設投資額は43万円(当時の村予算の10倍以上)であった。
 落成式の挨拶(贈呈の辞)の中で、古川は「国家の隆昌はその基礎を初等教育の振興に俟たねばならないと信じる」「僅かたりとも郷土の恩に酬いることができ、数多有為の人材が輩出し、国運の進展に寄与し、郷土永遠の隆運が招来致しますならば、望外の幸いとする所」と述べた。
 その寄付は、古川が金満家であるが故になされたものではなく、郷土の恩に報いんがため、また将来を担う子どもたちが国の進歩発展に寄与し、郷土に永遠の和平・隆運が招来することを願うが故になされたものであった。

 この豊郷小学校建築については、当時の学校長山中忠幸、古川鉄治郎とメレル・ヴォーリズの間で学校の理念や理想が語られ深められ、学校建築およびその教育環境が実現されたのではなかろうか。1930年代という時代背景は戦争への道をひた走る暗い時代であったが、古川の故郷の子ども・青年にかける熱い思い、それを実現した豊かな資金と、ヴォーリズの優れた設計理念が秀作を生み出した。その校舎・校庭(敷地面積:約4万平方メートル)は、当時の最新設備を備えた鉄筋コンクリート造小学校建築の先駆けであるに留まらず、教育環境も高く評価されており、教育施設の理想形であった。
 そして、66年間という歴史は、そこに多くの学校物語がつくられ、それが上級生から下級生、先輩から後輩、親から子へと受け継がれていくことで豊かな伝統となり、校舎を大切に使うという倫理観を育んでいった。子どもたちは日々「自分たちの学校」のイメージを心に刻んで育ち、学校物語が詰まった校舎・校庭は、卒業生・地域住民に誇り高き「東洋一の小学校」として、今日まで愛され親しまれてきたもので、真に歴史的文化的な意義の大きな学校であると言える。

欧米視察旅行 パリの飛行場にて
(昭和3年8月、左 古川鉄治郎、右 古川義三)
豊郷小学校の定礎銘(昭和12年2月11日)

 4.卒業生・地域住民は校舎を守った
 
 ところが、2001年になると、校舎改築問題がにわかに浮上してきた。同年2月2日、大野町長は、私と面識のある藤實氏を同行させて拙宅を訪れ、「校舎は老朽化しており、耐震性に問題がある。従って、児童の安全を確保するためには校舎の改築が必要である」と説明、さらに「改築を求める請願書」を示し、校舎の改築が民意である旨の説明を受けた。しかし、私の心情は「まさかあの校舎の改築が民意とは・・・(残念)」という気持ちで一杯だった。
 同年10月、ヴォーリズ建築研究の第一人者、山形政昭大阪芸術大教授の訪問を受けた。先生より「豊郷小学校はヴォーリズの設計による歴史的文化的な価値ある建築で、耐震上の問題などない頑丈な建物である」とのお話をお聞きし、町長の説明に偽りのあることに気づいた。
 その後、12月12日、「講堂解体差止めの仮処分申請」に同意して以来、私は一貫して「考える会」の校舎保存運動を支援・支持し、町側の強引なやり方に反対してきたが、翌02年1月24日に大津地裁より「講堂解体差止め」の仮処分、また同年12月19日には「校舎解体差止め」の仮処分が決定されるに至り、住民側が勝訴し、卒業生・地域住民の手によって旧来の校舎建築は守られた。
 ここに特筆すべきは、02年5月、校舎の耐震診断をイオリ建築設計事務所(大阪市)に行っていただき、その結果に対して、同年8月、(財) 建築研究協会(理事長 川上貢、京都市)で組織された、建物耐震診断性能評価委員会(委員長 金多潔京大名誉教授)より「この建物は戦前に建設されたものであるが、耐震性能は国の基準を満足する優れた耐震建築であり、軽微な補強で、今後も永続的な使用に耐え得る」との結論が下されたことである。
 今後、この校舎が地域住民および各分野の専門家の叡智を集め、再生保存活用されることを願ってやまない。

 【本文は、雑誌『教育』2月号、「豊郷小学校小特集」の寄稿文に写真を追加して再編】

<参考>
1. 2代伊藤忠兵衛は明治29年3月の豊郷小学校卒業生。伊藤忠商事鰍フ創業者、古川鉄治郎とは従兄弟。
2. 平生釟三郎は甲南学園の創立者(元文部大臣)。滑ロ紅商店の監査役(1933-1940)も勤め、昭和14年4月、古川鉄治郎・義三と豊郷小学校を訪問。
3. 堤恒也甲南小学校校長は、昭和12年5月、豊郷小学校の落成式に出席。


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