「常に備へよ」─阪神大水害(昭和13年(1938)7月)より70年─

 「甲南小学校 水災記念誌」は、23回生 山田早苗氏が保有されているものであり、現在、この1冊しか残っていない非常に貴重な資料です。山田さんはこの他にも甲南高等学校編纂の「阪神地方・水害記念帳」や甲南高等女学校の資料、さらに貴重な絵はがきなどをお持ちです。
 ここでは、「甲南小学校 水災記念誌」および甲南高等学校編纂の「阪神地方 水害記念帳」に記載されている、当時の甲南小学校の堤恒也校長の感慨のことばおよび児童の作文を掲載し、70年前の出来事を振返ってみました。

水害記念碑「常ニ備ヘヨ」

は し が き
(水災記念誌より抜粋)

 昨年七月五日、突如として起りました六甲山系の大山津浪による大水災の一周年に当り、茲に此の小冊子「甲南小学校水災記念誌」を編纂致しまして、先ず謹んで哀れ犠牲となられた諸子の霊前に捧げます。
 次いで、当時の当局の方々、理事、保護者各位の有難き御同情御高配。其の他各方面の方々、卒業生諸子等の御懇切なる御慰問御助力に対し、満腔の感謝を致します。
 水禍が如何に突発的であり、想像も及ばぬ大惨害でございましたか。激流、土砂、巨岩、之に伴ふ悲惨、筆に盡すことは出来ませんが、本校職員児童の体験のまゝを誌して記念とし、又後車の戒にもと存じました。
  
 昭和十四年七月五日
   甲南小学校長  堤 恒也

23回生 山田早苗氏
サンデー毎日 2002年9月29日号に掲載
芦屋市立美術博物館 企画展「阪神大水害」に資料提供

   
感 慨 無 量

 重し夢の様です、彼の瞬間を誰が予想し得られませう。二旬余も降り接いた雨は七月五日の朝になつて一層激しく盆を覆す様でありました。私は午前七時住吉神社社前で出征軍人を見送って学校に帰り、住吉川の水流を気遣ひ度々出て川を見護りましたが、昭和十年の水よりも水位が遥かに低いので、安心して午前八時授業を開始しました。しかし九時頃何となく胸騒ぎが致しますので、断然授業の中止を命じ、児童を講堂に集めて途中の注意を訓示し、職員諸君に夫々分担を願ひ児童を帰宅せしめました。唯交通機関による通学のものを如何にすべきかと協議中の瞬間、濁水がこの兄童の集合してゐる講堂に襲ひ来ました。「早く早く、渡廊下を幼稚園の階上へ上れ。」と急がせましたが、多数の者は渡り得ずして、廊下の柱を命と頼み取鎚るのみ。刻々に増す水量に「頑張れ、離すな。」と声を限りに叫ぶ。其の中に「助けて助けて。」と泣叫ぶ。何といふ悲惨事でありませう。漸く職員諸君、應援巡査、青年団員各位の必死の努力によって、鉄鋼の藤柵を力に救命されました。最後には廊下の屋根を破って大部分の者は助かりました。
私も子供と共にすがって居りましたが、激流に流され、ふとした流れに乗って講堂に流込んで不思議の一命を拾いました。しかし四名の子供一名の附添が犠牲となりましたことは誠に千載の恨事であります。御両親の御心中を察しては申す言葉もなく、此の時程私の一生を通じての苦しみはありませぬでした。寧ろ死んで居ればよかつたとさへも思ふ悲痛の心持で、茫然自失の姿でありました。
 学園としても三十年に近い苦心経営が一朝にして全滅したのです。想へば感慨無量であります。寸余の苗木から育て上げた緑の松、あの爛漫たる春の櫻花、一切が壊滅したのです。職員室にあつた書類その他の器具、一物も残らず流失、多年の研究物もすべて失ひました。嗚呼々々学園は全く廃滅と長歎息するのみでありました。しかし私が萬死に一生を授かりましたこと、天の使命でもありませう。此の余生を捧げて各位の御援助を願ひ、学園の復興に努力致しますことこそ、私の責任であると悟りまして、心機一転日夜精進して居ります。幸に天祐と各位の御協援により前にも優る学園が生まれ、育英の前途に光明が加はりますならばと只管念願して居ります。(堤 恒也)


甲南小学校児童の作文
(「阪神地方水害記念帳」甲南高等学校編纂 資料提供:山田早苗氏)

天     災
( 6年 古川 マリ )


 あゝ思ひ出しても恐ろしい昭和十三年七月五日の午前九時頃でした。
 「今日はこれで授業を終りにします。数日来の雨で住吉川の水があふれさうですから。それで皆今すぐ講堂に集つて下さい。」
と廣瀬啓太郎先生のお声。
 「裁縫がぬける。」
 「試験の問題全部うつしたい。」
などと言ひながら、皆はお締りの用意をして一腰に講堂に集りました。外は篠つくばかりに雨が降つてゐます。
 講堂で締り途の御注意を聞き、近くの人々はそれぞれ先生がおつきになつて帰つてしまひました。
 後に残つた遠方の人々は、たゞじつと待つてゐました。先生方は私達を安全に蹄らさうとして一心に御相談をなさいました。けれども、もう電車も何も動きません。電話も不通となりました。
 其の時です。一消防手が住吉川の方から大声で、「堤防が切れた。」との知らせ。之は大変
 「幼稚園へ行け。二階へ上れ。おちついて。」と先生のお馨。
 ざあ−。物すごい育と共に講堂に浸水し、リノリユームがむくくと盛り上ります。
 「おちついて、おちついて。」
自分でつぶやきながら裁縫箱をしっかと持ちました。
 「こはい。」とセツちやんが言つたので、
 「そんな弱い事言つてはだめ。気をしつかり持ちなさいおちついてね。」
となだめながら、なるべく組の人とかたまつて行かうとしました。
 ざあざざあー。ごう、ひゆうー。
 がつしやん、ばりばり。どしやん。
狂ふ水魔は瀧つ瀬となつて私達の行手を遮ります。はや膝まで来ました。
 「きやあ、こはい。」
 「助けて!!」
もう渡ることが出来なくなりました。今はたゞ廊下の柱につかまるより外はありません。水は一刻々々増し、腰まで来ました。もう背も立ちません。大きな材木が体に当ります。
 「助けて!!助けて!!。」
今は先生もどうしてよいかおわかりにならないのでせう、たゞ私達に
 「がんばれ!! しっかりせい!!しっかりせい!!。」
と元気づけながら、懸命に救の手を伸して下さるのでした。
 「あゝお父様、お母様。………」
順次に浮ぶ父母兄弟、先生、親しいお友達の顔顔。
セツちやんが、
 「苦しい。」
と言ひすがりますが、自分も少し手を離せば流れてしまふので、片手をつかまつて、片手でセツちやんの体をひつしとつかまへてあけました。其の時にはもう裁縫箱も私の手から離れて、水の中に消え去つてしまつてゐました。
 「皆おもくて苦しいからかばんをはづしてもよろしい。」
と先生のお声がしましたので、私はセツちやんのと自分のかばんをはずしました。
 「助けて!!助けて!!。」
援ひを求める馨はいつまでもいつまでも続きました。
 「あつ大へん。」
私と同じ柱につかまつてゐられた、山本さんのをばささんと山本陽子ちやんが手を離して流れておしまひになりました。
 「森さん・八木さん・武田さんはどこにゐられるのだろうか。」
とうつつに思ひ、半分夢心地で、他の柱につかまつてゐられる方々に目をうつしました。あゝ一年生の松岡さんは女中さんにおんぶされながら泣いてゐました。
 ふと自分を見ると、髪の毛は束のやうになり頭の先まで泥まみれです。八木さんのお母様は、自分の体を横にして其の上に小さい人をのせて上げてゐられました。
 間もなく、先生方の必死のお働きによつて廊下の屋根が打ち破られ、私達がそこから引上げられました。あゝ、天の助、先生のおかげ。
 先生にひつばつて頂いて屋根に上ると、三足横はまだ濁水がにくらしいばかりに流れてゐました。前を見るとなつかしいお友達が呼んでゐて下さいました。
 裁縫室へ入ると、八木さんと武田さんが、私とセツちやんを色々暖かいやうにして下さいました。見ると洋服の縫い目の問に土砂が入り、重荷をかついでゐるやうに感じました。私はかう言ふ時にこそ本当の友情があらはれるのだと思ひました。
 あまりに塞いのでカーテンにうづくまつてぶるぶるふるへてゐますと、永田さんや森本さんが
 「階段の水が増して来た。」
と心配さうに言ひました。
 「ママー、ママー、おねえちやん。」
と二年生の山本登ちやんが泣いてゐます。お母様とお姉様は流れておしまひになつたのです。
 「ママは、きつと助かつていらつしやるから、泣いたらだめよ、ね。」
八木さんは泣く登ちやんを慰めてゐました。其の時御運よく、あぶない中から助かつて、山本さんほ御姿をお見せになりました。
 今まで不安に思つてゐてお顔を見る事が出来なかつた嶋さんや間島さんもやつとの思ひで助かつて上つていらつしやいました。いつも元気で面白い森本さんも今日は弟の五良ちやんがゐないので、さびしさうにしよんぼりしてゐました。
 やがて大西先生と濱野先生が上つていらつしやいました。濱野先生は半身どろどろで大西先生はシャツが引さけ、唇は真青でした。両先生とも私達の命の恩人です。もし村田先生、大西先生、濱野先生方がおいでにならなかつたら、私は廊下の下に埋まり比の性を去つてゐたかも知れません。叉裁縫の先生の御奮闘ぶりは大したものでした。女でゐられながら一番最後まで残つて人数を先生に知らせられたさうです。
 其の時誰言ふとなく校長先生が居られないと言ふので大さわぎになりました。
 「校長先生しっかり!」
 「校長先生!!校長先生!!」
皆は声の限り叫びました。校長先生は渡り廊下から講堂に流されなすつたさうです。回転窓から校長先生のお指が出ました。人数の知らせでせう。窓から出ようとなさつたが各窓は土砂のために中々開きませんでしたけれども一番校の窓だけ運よくおはづしになりました。そこからは校長先生につゞいて五年生の梅鉢さん二年生の田村ちづ子ちやん、一年生の山中ひな子ちやんと森さんの女中さんが出ていらつしやいました。
森さんの女中さんは、小枝ちやん、茂ちやん、精二ちやんの三人が皆無事に居られたので大さう喜んでゐられました。
 此の時一方では永田さんの女中さんに大勢かゝつてゐました。
 「永田さんの女中さん!」皆は一心に叫びました。
 「ふで、しつかり!!」永田さんは真剣に呼んでゐました。けれども
 「あつだめだ。」
永田さんの悲しさうな馨と共に女中さんのつかまつてゐられた木は倒れ、命の綱も切れ、あつと言ふ問に濁流に赤まれて要は見えなくなりました。聞けばあの女中さんは、五年間も永田家に仕へてゐたといふいゝ女中さんであつたさうです。あゝ何といふ気の毒な事でせう。どうか助つてゐられますやうに。
 村田先生が
 「もし水が来たら此の上へ上りなさい。上には木が十文字にしてありますから、其の木にまたがれば安全です。」
とピアノの上に上つて言はれました。
 「理科室の方が安全だから理科室へ行け。」
皆はどつと理科室へ押寄せました。
 幼椎園の人々は、先生のお弁当を一口づゝ頂いてゐました。校長先生に今山先生が、
 「先生おかぜをおひきになりますから、之をおめし下さい。」
と言はれても、
 「いやかまはん。わしはよい。生徒を。」
と言はれて、中々開かれず、私達の事を思つて理科室のテーブルを外へ出させたりなさいました。
 「あゝ、こんなよい校長先生がゐられてこそ、甲南小学校が益々よい学校になるのだ。」
と私はつくづく思ひました。
 やがて雨も小降りになり、空も大分ましになりましたので、外へ家具をつみ重ね、其の上を学年順に消防手の人に手を引かれながら、進藤さん、岡谷さん、田中さんへ分けて避難させて頂きました。
 途中、理科室から遊びなれた松林を通りました。遊び所として楽しく遊ばせてくれた松林、おままごとをして境をするのに使つた堅い土も、今はぶさぶさと膝の辺まで突込めるやうになつてゐました。洲の上を家鴨がひよこりひよこりと歩いてゐました。
 やつと辿りついた田中さんのお家。二階の勉強室で休ませて頂き、おいしいおにぎりでお腹をふくらませました。心を落つけて外を見ますと、本常に想傷もつかないやうな光景が、眼の前にあらはれて来ました。
此の時、
 「五良ちやんが助つた。」
と言ふ誰かの馨。森本さんの顔は見る見る嬉しさに輝きました。
 私が窓ごしにカーテンにうづくまつてゐますと、廣瀬啓太郎先生がいらつしやいました。先生は御自分が送つてゐられる間に、比のやうに変り果てた様子を驚いてゐられるやうでした。先生は暫くすると
 「魚崎の人達が安全に帰つてゐるかを調べて来ます。」と言つて白い紙を持つて出て行かれました。
 聞けば、大西先生は家が屋根まで埋まり御家族がどこにおいでになるか分からないさうです。誠にお気の毒な事です。高岸先生の家もつかり、校長先生の家も二階だけ残つたさうです。
 数分後、武田さんとで友達はどうしてゐるか知らんと話してゐると、外の方で何だか聞いたやうな細い馨がするので、窓からのぞくと嘉納さんと松下さんとでありました。長い間あはなくて久しぶりに聞いた馨のやうに感じました。
 「松下さん、嘉納さん。」
と私が思はず二階から呼ぶと、
 「あらまあ、古川さん。」
と言つて、私の姿を見て大へん驚いてゐました。
 「二階へ上つていらつしやいよ。」
 「ふんふん。」
松下さんは帰り道の模様を細々と語つてくれました。私も今までの事を話すと、二人は驚いてゐました。丸井さんや藍野さんも来ました。
 「皆んな一旦学校へ来て下さい。」
と先生が言はれたので、学校の読書室へ行きました。
 住吉川は一滴の水もなく、空はからりと晴れて、立派な住宅地や美しい畠を土砂で埋め、其の上幾人かの尊い魂が神仏のもとへ行かれたのも知らぬ顔にゐるかのやうに見えました。
 講習室へ行つて間もなく廣瀬佐平先生がいらつしやいました。先生のお諸によると、伊藤孝太良家はあつと言ふ間もない位恐しい水魔に呑まれ、金太ちやんも鈴子ちやんも家の方全部お流されになつたさうです。私の胸は早鐘のやうになりつゞきました。
 「あゝをぢ様、をば様、いとこの金太ちやん鈴子ちやん。」
次々と私の目の前に浮び立つていらつしやるお方。今はもう仏様のもとへ行かれたのです。
 読書室の奥にゆかたが置いてあつたのでそれを着、やつと身のひきしまつた息でおにぎりやお茶を頂きました。
 「もう今は何時でせう。」
私達は、芦屋や西宮への電車が不通で帰る事が出来ませんので、御影や住吉の親類か知合のお方の家に泊る事になりました。
 私とセツちやんは、松下さんの家へ行くはずでしたが、其の時本家の忠兵衛をぢ様が来てゐられましたので、一旦梅林(梅林とは伊藤竹之助家)へ行く事になりました。
 「一二さん、かはいさうね。」
皆は同情しました。一二さんは学校の帰途小学校に来て、人々から御家の方が流されて亡くなられたと言ふ事を聞いて、大へん驚いてゐられ叉悲しさうな様子でした。
 「八郎はどうした。」
 「僕は知りません。」
一二さんと本家のをぢさんは何か言つてゐられました。私は手伝さんにセツちやんはぢいやさんにおんぶしてもらつて学校を見ました。途中八郎さんと出会ひました。二人とも此の日から孤児になられました。女学生が私達の姿を見て何かさゝやいてみてゐました。.
 やつと辿りついた梅林の門をくぐつてお屋敷へ入ると、をば様が白い布で何かつくつてゐられました。
(中略)
 色々な話をしてゐる中に晩になりましたので、御飯をすませて床につきました。恩へば此の日此の世を去られたお方は、五年生の阿部泰治さん同山中美智子さん、二年生の千原博ちやん、一年生の砂川勇雄ちやん、同横井元宜さんと永田さんの女中森光筆子さん、それから伊藤家の方々です。眠らうと思つても眠れない私は、じつと亡くなられたお方の事を考へました。
 おとなしくて眞面目であつた阿部さん、相撲が強くて活発であつた金太ちやん、にこにこと丸いお顔の山中美賀子ちやん、踊りが上手で可愛らしい鈴子ちやん無口でおとなしい千原さん、新しいかばんの砂川さんと横井さん方のお姿がやみの中に出ていらつしやるのでした。
 「あゝ、此のお方らの事を思へば、私は命を助けて頂いて本当に有難い事だ。」
と思ひました。私は梅林から伊藤(茂)さんの家へ来た時、お仏壇に向つて命を助けて頂いた事を仏様に御礼を言ひました。
 翌日おみせのをぢ様とぢいやに連れられて、やつと我が家に締りついた時は、何だかほこほこと暖かくなつたやうな気がしました。お姉枝やお兄横や女中さんの顔を見た時、一年ぶりに出会つたやうに感じ、又家もなつかしく思ひ、思はず机にすはつて引出しをあけたり珍しさうにあたりを眺めたりしました。
 帰る途中甲南小学校を通りました。校庭は想像もつかぬ程かはりはて、其處にテントが張つてあつて、中で先生方が御相談をしてゐられました。森さんもお母様と一しょに学校へ来てゐました。
 伊藤家の御葬式は三回にして終り、納骨の日も過ぎました。学校の荒れ果てた校庭を整理して、八月七日涙の慰霊祭が行はれました。六年間毎日通つた門も今はあとかたもなく、南の運動場の隅に滑り台が
 「大へんな事になりましたね。」
と言はんばかりにしよんぼり残つてゐました。
 此の度の山津浪の損害は多大なもので、巨岩巨木をどんどん押し流し、阪神問の住宅地を一朝にして河原と化した水の強烈な力を驚かずはゐられません。非常時に際し不慮の大水禍に会つた私達はどうしたらよいでせう。私は此の体験を天の試練と思ひ、比の様になつた学校の児童として、一心に勉強しなければなりません。