1.甲南学園の草創期
明治43(1910)年春、住吉村およびその付近に住んでいた人々の間に、私立幼稚園および小学校をこの地に設立して児童通学の便を図りたいとの相談が頻繁にあり、建設の計画が生まれた。発起人のうち創立活動に携わったのは、田辺貞吉、才賀藤吉、弘世助太郎、平生釟三郎、生島永太郎、岸田
杢、阿部元太郎、野口孫市、山口善三郎、中島保之助、小林山郷の各氏11名である。住吉村反高林の村有地を借り受けて敷地とし、費用1万円余りをもってまず幼稚園を作り、明治44(1911)年9月10日に開園(園児44名)した。
明治45(1912)年9月11日、財団法人甲南学園の設立が認可され、理事長には田辺貞吉、理事には平生釟三郎、阿部元太郎、野口孫市、才賀藤吉、小林山郷の各氏が就任した。
以上のように『甲南学園創立記念誌』(甲南小学校同窓会・資料室保管)に記載されているが、これら先人のなかで田辺貞吉、阿部元太郎、野口孫市について最近少々わかったことを以下に書きとめておく。
2.住吉村と阿部元太郎
住吉村といえば反高林と観音林(JR住吉駅付近)が住宅地の中心だった。そこには自ずと幼稚園および小学校を設立して児童通学の便を図りたいとの要望が生まれた。
観音林(現在のJR住吉駅から山の方に上がった所)は明治38年頃に開拓され、阿部元太郎氏(滋賀県能登川出身の阿部一族の流れを汲む人)が最初に居住した。もともとはお寺があった所であったが、お寺は山崩れで倒壊してしまい、その頃は雑草と松林しかなかったそうだ。そこで阿部氏がこの地域一帯を買い取り、上水道を計画するとともに井戸も掘り、住宅地として開発していった。氏は住宅地開発のほか、住民同士の交流や地域のまちづくりを考える場所も欲しいと、明治45年に社交クラブ(観音林クラブ)と会館を造った。一方、平生釟三郎氏は観音林クラブに所属するとともに、財団法人「拾芳会」を設立して育英事業、教育・学術の普及奨励に努めた。甲南学園、甲南病院を設立したことは言うまでもない。そして、ここは水や気候もいいと財界人が多く住むようになり、大正2年に住友家が居住し以降は高級住宅地として発展していったという。
3.近代建築と野口孫市
当初、省線電車(現・JR)上りの停車駅は「住吉、住吉」、次は「西宮」で「芦屋」には駅がなかったので電車は止まらなかったというが、住吉村には関西財界人が多く住み、芦屋を上回る大邸宅が数多く建てられていた。旧村山龍平邸、旧武田長兵衛邸、旧大林義雄邸、旧乾邸などの大邸宅は今でも残っているが、その近くに田辺貞吉(甲南学園・初代理事長)の引退後の邸宅もあった。震災で被害を受け取り壊しの危機にあったが、武田薬品工業の手で京都百草迎賓館として移築再生されたという。このように阪神間の近代建築も時代とともに次第に取り壊され、町並みは変化し往時を偲ぶ由もなくなりつつあるが、当時の建物や資料が残っており、それを通して今は亡きその主、設計者や著者と無言の会話を通して接触できるとき、もののあわれとともにほのかな安らぎを感じうれしいものだ。
さて、野口孫市(1869−1915)についてはご存知の方も多いと思うが、当時の著名な建築家であった。明治2年に姫路市に生まれ、明治27年に東大建築科を卒業、逓信省を経て、住友(住友営繕、現・日建設計)に入社した。住友に入って最初の作品は大阪中之島の府立図書館(竣工明治37年)である。野口は、住友家のお抱えの建築家でもあったので、住友関係の多くの建物、邸宅を設計している。大津市石山の伊庭貞剛邸(竣工明治37年)や前述の田辺貞吉邸(竣工明治41年)などが現存している。建物はその時代の歴史をわれわれに語りかけてくれる。甲南小学校の最初の木造校舎については写真しか残っていないが、野口孫市の設計によるものらしい。
4.住友銀行の田辺貞吉
昨2005年11月頃、大津歴史博物館で「広瀬宰平・伊庭貞剛展」が開催されたが、このとき、私は展示資料なかの「住友銀行を興す議事録」(明治28年、添付写真参照)の参会員の署名に、私は「伊庭貞剛」とともに「田辺貞吉」の名前を発見した。
近代の住友には戦後1946年までに事業を発展させた7人の総理事がいるが、その初代が広瀬宰平(1826−1914)、2代目が伊庭貞剛(1847−1926)で2人は叔父と甥の関係にあり、広瀬宰平は住友家の別子銅山を守った救世主、伊庭貞剛は住友の近代化を推進した立役者として知られている。ご子孫の伊庭さんは甲南小学校の卒業生でもおられ関係が深い。田辺貞吉は、住友銀行の設立に参画し住友銀行の初代支配人となり、また甲南学園の設立にあたっては初代理事長となった人物なのである。
甲南学園の創立、発展に携わった人物として平生釟三郎氏、伊藤忠兵衛氏のことや、私が小学生時代の理事長・武田長兵衛氏についてはいろいろと聞き知ってはいたが、田辺貞吉氏についてはその名前を前述の『甲南学園創立記念誌』において一瞥したにすぎなかった。一体どのような人物だったのだろうかと興味をもっていたが、今回の「広瀬宰平・伊庭貞剛展」における展示資料を通じての出会いによって初めて住友と関係の深い人物であったことを知ることができ、またホームページの検索を通じて、旧田辺貞吉邸が武田薬品工業の手で京都百草迎賓館として、移築再生されたことを知り大変うれしく思った。
伊庭貞剛は明治37(1904)年、日露戦争勃発の年、58歳のとき、「事業の進歩発展をもっとも害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈(ばっこ)である」との信念から総理事就任から4年で引退し、大津市石山の旧伊庭貞剛邸(現・住友活機園、竣工明治37年)を終焉の地と定め隠棲したという。
この旧伊庭貞剛邸は国指定重要文化財に指定されているが、年2回しか公開されないとか聞いている。旧田辺貞吉邸も含めてチャンスがあれば、是非見学し先人を偲びたいと思っている。
皆さまも甲南小学校とゆかりのある人物や建物などについて知っていることや解ったことがあれば、同窓会まで是非ご連絡ください。
(2006年2月1日 HP委員)
創立者平生釟三郎─理想教育の実現に向かって