甲南学園の創立者 平生釟三郎

─ 理想教育の実現に向かって ─


1.甲南学園の出発点は幼稚園
 40代の半ばごろに「人生三分論」という哲学に到達した平生釟三郎は、「50歳を超えたら第三期の社会奉仕に専念したい」と考えていた。しかし、それがようやく実現できたのは60歳を直前にしてであった。本格的な奉仕活動は、大正15年1月、甲南高等学校の理事長に就任することから第一歩を踏み出した。
 釟三郎が東京海上に在職中から、甲南幼稚園を手始めとして、小中学校の創立に取り組んできたのは、さまざまな人生体験を通じて、教育の大切さを痛感するようになっていたからだった。
釟三郎は、日本が欧米の先進国に劣らぬ民主的な社会を実現し、世界に発展していくことを願っていた。そして、そのためには社会倫理を向上させ、科学文明を発達させなければならないと考えていた。ところが、現実には物欲主義、出世主義がはびこり、目先の利益だけを追い求める人があまりにも多かった。
 「これでは日本はよくならない」
 そこで到達したのが教育だった。
 「正しい教育によって、優れた人間をつくらなければならない」
 では、それはどんな教育か。
 「単なる知識の詰め込みであってはならない。第1に、立派な人格教育を施さなければならない。第2に、健康な肉体の持ち主をつくらなければならない。第3に、人間はそれぞれ天賦の才能を持っているから、画一的な教育を避け、個性を尊重しなければならない
 そんな理想を描きながら神戸郊外の住吉村に転居した釟三郎に、小学校設立の計画を持ちかけてきたのは、同じ住吉村に住む日本生命社長の弘世助太郎だった。明治43年のことだった。
 そのころの住吉村は関西の実業家たちの居住地として開けつつあり、弘世は新しく移ってきた財界人や土地の有志の子女のため学校建設を計画した。そして、神戸商業学校長の経験があり、教育に独自の見識を持つ釟三郎に協力を求めてきたのだ。釟三郎は喜んで申し出を受け入れた。
 ところが、明治44年(1911)に幼椎園として認可を受け、翌45年4月に開校した甲南小学校は、当初は経営が思うようにいかず、多くの発起人や理事が手を引いていった。そのため、金銭上の面倒は見ないという約束で理事を引き受けた釟三郎が、次第に中心となって維持していかなければならなくなった。
理想の教育を目指す釟三郎は、
 「教育事業というものは企業経営とは違う。財政難を理由に中止とは何事か」と、持ち前の正義感から、サラリ−マン勤めの忙しさにもかかわらず、経営を引き受けた。そして、全力を傾けて解散の危機を乗り切った。その結果、大正5年(1915)には入学希望者が増え、翌6年にはようやく経営基盤が固まった。

2.中学校の開校へ
 次なる目標は中学校の開設だった。釟三郎は大正7年6月に中学校創立事務所を甲南小学校に置き、7月には創立準備委員会を設置した。そしてニューヨークに滞在していた青年実業家、伊藤忠合名会社社長の伊藤忠兵衛に長い手紙を書き送った。
「この世の中を立て直すためにも、甲南学園に中学校をつくろうと思う。ついては君も仲間に加えたいから、応分の寄付をしてもらいたい。それに、自分はイギリスの教育制度についてはかなり知っているが、アメリカのほうはよく知らないから、急いで調査してもらいたい」
(中略)
 学校の建設地は本山村岡本の二楽荘山麓と決まった。本格的な校舎が完成するまでの仮校舎の建設が始まった。辺りには山裾に沿って昔からの民家が建ち、二楽荘の東麓には梅林があった。建設地から海岸の村落までの間は、東海道線が一筋走っているだけで、民家もほとんど見当たらず、眼下には稲穂の波が一面に拡がっていた。
 入学試験は大正8年(1919)4月に御影師範学校で行われ、124人の受験者中60人が合格し、25人が入学した。
志願者に配布した学校要覧には、以下のような設立の要旨が記されていた。
 「個性を尊重し、且つこれに順応せる教育を施し、もって国家有用の人材を養成せんとす。その目的を徹底せんがため、一学級の定員を30名とす」
授業料は年額50円と決められた。
 入学式は4月21日に行われた。その日の感慨を、釟三郎は日記にこう書いている。
 「鳴呼(ああ)、今日呱呱(ここ)の声を挙げたる甲南中学校よ。長(とこ)しえに健在にして、摯実(しじつ)剛健にして志大に高く、能(よ)く将来を達観し、大局の打算を誤らざる報囲尽公の志厚き国家有用の材幹を養成し、もって国運の進展に寄与せんことを祈ること、余の年来の宿志たる一端がその緒に就きたるを見て、ますます進んで最終の理想たるべき東洋一の大学(人物教育を率先)の創立の計画に一歩を進めんと欲す」
 初年度の教員は校長を含めて7人で、生徒たちは甲組27人、乙組28人に分けられた。 釟三郎の教育理念に共鳴する優秀な教員による、行き届いた少数者教育がスタートした。

3.七年制高等学校で理想教育
 「東洋一の大学を」
 釟三郎の夢は大きくふくらむ。その夢に共鳴して土地の提供者も現れた。喜んだ釟三郎は大学建設に備えて毎年2万円ずつ醵出(きょしゅつ)することにしたところ、理事たちも倣(なら)って醵出金を申し合わせた。
しかし、当面の目標は大学より先に高等学校を建設することだった。ちょうどそのころ、尋常科4年、高等科3年という7年制高等学校の制度が認められた。かねてから一貫数育を主張していた釟三郎は、これにいち早く着目し、甲南を7年制高等学校にしようと決意した。
 ところが、予想もしていなかった大変動が経済界を急襲した。大正9年(1920)3月の東京株式市場の大暴落から、突然の不況が訪れたのだ。そして、6月のアメリカの恐慌が、これに拍車をかけた。
 実は、鉱山業で大成功した新興財閥の雄、久原房之助が釟三郎の志を知り、大学設立の資金と土地の提供を申し出ていた。ところが久原財閥もあえなく倒産し、釟三郎の勤務する東京海上までが危機に陥った。学園に関係する実業家の多くも大きな打撃を受け、釟三郎は大学建設の夢どころか、高等学校の設立に必要な基本金さえ準備できなくなるところまで追い込まれた。
 落胆した釟三郎は、一時は学園を国家に寄付してしまおうとまで考えたという。しかし、気を取り直して私財を投げ出し、協力者にも働きかけて急場を切り抜けた。このとき、伊藤も大損害を受けていたが、父に譲られた貸家の家賃を学園に提供すると申し出て、釟三郎を感激させている。
 こうして大正11年に文部省に提出した申請書は翌12年に認可され、甲南中学校は発展的に解消することになった。そして苦しい財政事情を抱えながら新校舎を建設し、設備を整え、同年の5月から甲南高等学校として再出発することになった。
 釟三郎は新任の教員が挨拶に来ると、必ず学校の教育方針を説明した。そして知育・徳育・体育のうち、まず第1に体育を強調し、知育は最後に位置づけた。
(中略)
 釟三郎が理事長に就任して間もない大正15年(1926)4月、第1回卒業証書の授与式を兼ねて、新校舎の落成式が行われた。約300人の来賓は、伊藤忠兵衛の主張で実現した高等学校としては初めての鉄筋コンクリート造りのモダンな校舎と、静かな教育環境に感嘆の声を上げた。それだけではない。卒業生の全員が志望通りの官立大学の試験に合格したことが披露されると、大きな喝宋が湧き起こった。釟三郎が第3としていた知育の面でも、生徒たちは抜群の力を発揮したのだった。
(中略)
 体育重視はラグビー、バスケットボール、テニス、射撃などの活発な部活動を促した。中でも釟三郎が肝煎りで奨励したラグビーは、高校インターハイの常連となった。また、柔剣道と水泳を尋常科の正課とし、各部はクラス対抗戦を年中行事としていたため、ほとんどの生徒が何らかのスポーツに参加していたことになる。生徒数は他の高等学校の5分の1か10分の1だったにもかかわらず、強い運動部が生まれたのは、全生徒が7年間にわたり継続して技を磨いてきたからだろう。

4.拾芳会
 釟三郎が経済的に恵まれない若者に学資を提供しはじめたのは、明治45年(1912)のことだった。それが拾芳会(しゅうほうかい)という組織になって続けられてきた。
(中略)
 当時は篤志家の寄付による奨学金支給機関も、いくつか存在していた。また、資産家が恵まれない若者を書生として家庭に住み込ませ、家事を手伝う代償に学資を援助して通学させるということも、かなり広く行われていた。しかし、拾芳会はそのいずれとも大きく違っていた。
拾芳会は、いわば釟三郎の私塾だった。塾生は平生家からそれぞれの学校に通い、普通の学生と同じ生活を、平生家の人たちと一緒に送るという、まったく自由なものだった。釟三郎は毎日定刻に帰宅すると、背広にネクタイ姿のまま、家族や塾生たちと食事を共にした。そして、食後もその姿で書斎に入り、遅くまで教務を続けた。そんな釟三郎に対して、塾生たちはこんなうわさをしていたらしい。
 「一体いつ寛ぐ(くつろぐ)のだろうか。何が楽しみなんだろう」
しかし、それが釟三郎の子供のころからの武家の躾と、イギリス生活で身についた習慣で、別に無理をしていたわけではなかった。
(中略)
 平生家では常に数人の塾生が暮らしていたが、学校の関係で寄宿できない拾芳会員も、夏休みには親元より先に平生家に帰ってきた。そこへ、すでに社会に出ているOBたちも集まってくるので、8月の平生家は拾芳連合総会のような状態になっていたという。それは釟三郎が何よりも楽しみにしていた会だった。

5.甲南病院の建設
 社会奉仕活動に専念することになった釟三郎が取り組んだのは、甲南学園と拾芳会の運営だけではない。もう一つ、激しく情熱を燃やしたのは病院の設立だった。
 釟三郎が病院の設立を考えるようになった動機は、前にも触れたように、二度にわたり妻を失ったことにあった。また、それから10数年後、拾芳会の塾生が病気のため九州の実家に帰る途中、福岡の大学病院の教授に人を介して診察を頼んだところ、たった一回の診察に50円の特別謝礼を要求されたことがあった。50円といえば、当時の一流会社の課長クラスの月給に相当する。それを開いて憤激した飢三郎は、自分の社会奉仕事業の一つとして、理想の病院の設立を決意したのだ。
(中略)
 釟三郎は、大正8年(1919)3月に川崎造船所の社長に就任し、10月には甲南高等学校の校長にも就任して、ますます多忙になった。しかし、その間にも病院の建設は着々と進み、9年6月には盛大な開院式が行われた。
 地域の開業医への協力も惜しまなかった。実は病院建設の構想段階で、「地域の開業医の反発を買うから中止したほうがいい」という勧告を受けていた。しかし、「この病院は来院患者だけでなく、地域の開業医と協力して、さらに広く社会に貢献するのだ」という考えから、開院式に阪神間の開業医400人を招待した。その結果生まれた開業医の依頼による施設の利用や総合診断の提供などの協力関係は、現在に至るまで続いている。

(『暗雲に蒼空を見る 平生釟三郎』小川守正・上村多恵子 1999年4月 PHP研究所 より抜粋)

甲南学園を創った先人たちとその時代