明治43年(1910)春頃から住吉村およびその付近に住んでいた人々の間に、私立幼稚園および小学校をこの地に設立して児童通学の便を計りたいとの相談が頻繁にあり、建設の計画が生まれた。発起人のうち創立活動に携わったのは、田邉貞吉・才賀藤吉・弘世助太郎・平生釟三郎・生島永太郎・岸田 杢・阿部元太郎・野口孫市・山口善三郎・中島保之介・小林山郷の各氏11名である。住吉村反高林の村有地を借り受けて敷地とし、費用1万円余をもってまず幼稚園を作った。

明治44年(1911) 9月10日、和田れん氏を幼稚園長とし、保母2名を採用し、開園(園児44名)した。(これを甲南学園創立記念日とする)
明治45年(1912) 4月7日、荻野立朗氏を校長とし、小学校が開校された。当時は1年生のみで、学級数1組、児童僅かに11名(園児70名/2組)であった。
大正1年(1912) 9月11日、財団法人甲南学園の設立が認可され、理事長には田邉貞吉、理事には小林山郷・才賀藤吉・野口孫市・平生釟三郎・阿部元太郎の各氏が就任した。その後1年を経るに伴い、1学年ずつ増加し、大正6年4月になって、小学校6年生までの各学年が全て揃った。
大正1年(1912) 12月、幼稚園長和田れん氏が辞任したので、小学校長荻野立朗氏が幼稚園長を兼ねることとなった。
大正3年(1914) 7月25日、学園長荻野立朗氏が辞任し、後任として同年9月1日今村豊明氏が就任した。今村氏はその後病を得て、大正4年(1914)6月21日辞任止む無きに至った。

大正4年(1915) 7月9日
、堤恒也氏が武庫郡今津小学校長より転じて3代目の学園長に就任した。
氏は、大正2年(1913)に東京池袋の成蹊学園を参観し、同学園の基礎を作った中村春二氏の教育方針に深く共鳴して、自分もかかる教育を実行したいと考えていた。中村氏は高等小学校を卒業した少数の優秀な少年を集めて、宿泊費を含む一切の学費を負担し、きびしい日課の励行によって、人物づくりに献身していた特異な教育家であった。平生氏や、同氏を助けた伊藤忠兵衛氏(後に甲南学園理事長)らも中村氏の教育に注目していた。そこで、堤氏は自分と志を同じくする平生氏の招きに喜んで応じたのである。
就任すると、まず学園の教育方針を確立することを主張し、次のような校是目標を定めた。(以下意訳)
(1) 児童の健康増進を図り、そのための環境・施設を整えること
(2) 児童数を少数に制限し、教育の徹底を期すること(1学級男女合わせて30名、全校180名)
(3) 個性を尊重し、自学の習慣を養い、創造力を培って、その天分を伸ばすこと
(4) 質実剛健の気風を尊び、社会・国家に奉仕すべき素質を養うこと
(5) 家庭との連絡を密にし、父母を啓蒙して子女の教育に力を注がしめること

大正5年(1916)
には、入学入園者が激増し、幼稚園は両組ともに30名の定員に達し、校舎・施設も増築された。11月26日には、校舎増築落成式を兼ね、創立5周年記念式を行った。
大正6年度(1917)には、授業料保育料(月2円)の収入と基本金(有志諸氏の寄付金6万余円)の利子とによって経営を維持できる見通しが立ち、ここに甲南学園の基礎が固まった。
大正6年(1917) 9月、南校舎南側800坪の借地権を購入し、整地して運動場とした。
大正7年(1918) 3月24日、第1回卒業式を挙行した。
大正8年(1919) 4月には、全ての学年が定員30名ずつに揃った。

因みに、甲南中学校の開校は大正8年(1919)4月、甲南高等女学校は大正9年(1920)4月であった。
ここに、創立者平生釟三郎氏(2代目理事長)が甲南学園の建学精神を次のように簡潔に提唱したことを付け加えておく。
「人格の修養と健康の増進を第一義とし、個性に応じて天賦の才能を発揮せしめる。」
 
草創期の甲南学園の校門
甲南学園児童募集要項(1916年1月)
増築後の校舎と塔屋(1916年11月)
第1回卒業式当時の理事・教職員

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