『同窓生便り』第6号 29回生 藤田 康博「疎開の思い出」

1945年(昭和20年)の春4月、太平洋戦争の戦況は益々厳しく3月には東京、大阪に大空襲があり、また神戸も中心部が爆撃され大きな被害を受けました。先に大学、高専(文系)の学生は学業半ばにして戦場に、中学生、女学生は工場動員に、そして小学生は烈しくなる空襲を避ける為、都会を離れ地方へ疎開する事になりました。

甲南小学校も廣瀬先生達のご縁があった丹波の谷川村へ3年生から6年生迄約100人の生徒(縁故疎開で一部の学友が別れた)が生まれて初めて親元を離れ集団生活をする事になりました。100人の子どもと10人足らずの先生、職員との共同生活の始まりです。

お世話になった谷川の「慧日寺」は杉木立に囲まれた山麓の大きな由緒正しき禅寺です。爆撃のない静かな山里生活で親元を離れたとはいえ戦火を免れ直接的には戦争の恐ろしさを経験しなかったことは本当に幸運であり有難い事でした。ただ幼く世間知らずの我々にとっては実際に経験した半年間の疎開生活は矢張り苦しく辛いものでした。

朝は本堂でのお勤め、午前中は授業、午後は6年生にとって多くの作業がありました。裏山で木を伐って薪をつくったり隣りの駅迄往復8㎞の道を大八車で貴重なお米を子ども達だけで取りに行ったり畑仕事も一通りは何でもやりました。夕食後は悪餓鬼(わるがき)が本堂に集められ空野先生からよくお説教?を受けました。又夜中には下級生を起こしてトイレに連れていったり、今思えば最上級生は今でいう管理職の一面を持たされ知らず知らずの内に責任感も生まれました。経験した事のない山仕事や農作業等はそれ程苦痛ではありませんでしたが辛い思い出は空腹感でした。 “衣食足って礼節を知る”と言われますがまさに至言。空腹感からくる疲労、脱力感、苛立ち、そしてチームワークの乱れ。

それでもなつかしく楽しい思い出も勿論ありました。川での水泳、夏の夜に光るホタル、愉快だったのは村の神社の相撲大会で我々が地元の子ども達に勝ち、それ迄都会から来た弱虫のボンボンのイメージを払しょくした事もありました。そして何より毎月の家族の訪問が最大の楽しみでしたが、当時のお母さん方は大変だったと思います。

一方戦運はいよいよ急を告げアメリカ爆撃機B29(ボーイング)の本土爆撃は苛烈を極めました。爆撃は戦時施設のみならず郊外の住宅地区にも拡がり8月初めには甲南小学校や甲南女学校、御影、住吉、魚崎等所謂阪神間住宅地に及び、生徒宅の何軒かも被害を受けました。そのニュースが朝会で報告され泣き出す子どもも居て戦争現実の厳しさを実感した事もありました。8月15日終戦。今は苦しいが土俵際打棄り(うっちゃり)の体勢で最後は必ず勝つと教えられていた我々にとっては大ショックでした。それ以降教科書の不都合な箇所は黒く消し軍国社会から民主主義社会へとあっという間に変わっていくのです。

9月になり我々は数台のトラックの荷台に分乗、半年ぶりに夫々の親元へ戻ってきました。そして二学期以降近くの灘中学校の教室を借り全校生徒が授業を受ける事になりました。休み時間に校庭で優しく接してくれた灘中学校のお兄さん達がなつかしく思い出されます。3月の卒業式だけは焼失して窓ガラスもない小学校の講堂で行われましたが風が冷たかった事を覚えています。

さて現地での問題の食事はどんなだったのでしょう。詳しくは覚えていませんが米の御飯には必ずコーリャン(モロコシ)や豆粕が入っていました。さつま芋とかぼちゃが代用食としてよく食卓にのり私は当時食べ過ぎたのか大人になる迄この2つは苦手でした。おかずには、さつま芋のつるやたにし(田園の貝)もよく食べました。食べた事のない食材ではありましたが味より成長期に入った6年生にとって量の不足がこたえました。疎開の思い出として必ず「腹がへった」という情けない思いが浮かんでくるのも事実なのです。

然し経験した苦しい思い出も当時は日本国民誰もが同様に経験し、苦しさに堪え、そしてその場その場で懸命に生きた時代でした。100人の生徒の安全と教育の責任を負われた先生方や住職始め地元の皆さんのご苦労は如何ばかりだったかと感謝の気持ちで一杯です。

88歳の米寿の老人が記憶を頼りに学友の岡田務君と当時を思い出しながら拙い一文を作成しました。思い違いや細かいミスもあろうかと思いますがご容赦ください。この文を書くに当って如何に戦争が悲惨であったかと思い戦後70有余年戦争のない時代に生きられた事を本当に有難く感謝しています。

現在の慧日寺

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