『同窓生便り』第3号 26回生 八馬 立「住吉川添いの学校」

住吉川添いの学校
昭和十年、私は甲南幼稚園に入園して、甲南生としての人生が始まった。
旧西宮市内に住んで居たので通園は当時、国道(今の2号線)を走っていた
阪神国道電車で往復し兄達と三人で通学して居たが、学校へは、住吉川の橋の上で下車し川添いを北に向かい当時は南側に有った正門から学校へ入っていったが、当時の川添いは松が多く、反対の東側には久原房之助氏の別邸の森が青々と繁り上流には水車小屋が有ったと聞いていた。学校の周りは自然に恵まれていた。
校長先生は堤恒也先生、広瀬佐平、廣瀬啓太郎 高岸義尚、浜野茂の諸先生方が居られ私の二年生になった時に西垣輝夫先生が来られ、以来 六年生まで受け持っていただいた。
当時 日本は軍国主義を国策とし日毎に戦争へと向かっていた日々だった。
しかし我々には、そんな事は解らなかったが智育 徳育 体育の平生先生が決められた校是にしたがった教育を受け、特に個性の尊重を大切に教えて頂いた。
毎週月曜日には朝 講堂に集まってリノリューム張りの床に正座し、佛教の一文を斉唱した後に受業が始まった。
学校の催事は多々有り運動会以外は毎週土曜日の午后は土曜遠足として近くの山や保久良神社へ遠足し、一日絶食会、早起き遠足で暗い内に学校に集まり芦屋の浜や魚崎の浜まで朝早く遠足し、朝日を拝して帰ってくる遠足、夏には水泳教室で夙川の西宮浜や魚崎に有った村山さんのプールで練習し、遠泳として魚崎から大石の浜まで四キロを泳ぐ遠泳会。又、剣道も四年生に成ると始まり冬には朝六時からの寒稽古、当時は,此れらの催事は辛く休みたい様な事も有ったが、たった十五人の男子としては、そういった事も口には出せなかったが今と成っては掛け替えのない思い出だし、今日、卒寿を迎えて元気に過ごしていただけるのも、この川添いの小学校、そして厳しかったけど個性を大事にして頂いた先生方のお陰と感謝して居る。
昭和十三年の阪神風水害で先生方が堤校長先生の指導で先生方が講堂の天井版を素手で剥がして一人づつ引き上げ屋根の上に避難さして下さった為に多数の生徒が助かったと聞いた。私は母の気転で二年生だった兄と二人は小さいから今日は休みなさいと云われ四年生だった次男の兄だけ登校したが幸いにも無事だった。
此の水害の後 常に備えよ と云う事も校是の一つと成ったと聞く。
私はこの様な戦争の時代に生かされ、千原君を水害で失い戦争で秋田君を失ったが、無事に平和な時代に人生の終わりを迎えられそうなのも住吉川畔に有る小さな暖かかった小学校のお陰だと思う。

LET ME TRY AGAIN
甲南大学時代から友達とハワイアンのバンドを結成して神戸や大阪のライブスポット(当時はキャバレー)で活動、その後ミシガン大学へ4年間の留学を経て 帰国後もビジネスの傍ら音楽はハワイアンからジャズとボーカル活動を継続してきました。
令和元年5月に卒寿を記念して再びジャズを歌わせていただく機会をいただきました。
武庫之荘にあるライブスポットアローでIT’S BEEN A LONG LONG TIME、MY ONE &ONLY LOVEなど私の愛するスタンダードジャズの名曲11曲を関西ジャズの重鎮でトロンボーンの宗清洋さんをはじめ蒼々たるプロのミュージシャンの方々のご支援をいただき歌わせていただくことが叶いました。
当日はどしゃ降りの雨にも拘らず80余名(満席)ものお客様が、この絶滅危惧種のジャズシンガーの保護観察にお越しいただきアットホームな雰囲気の中、無事、完走をすることができました。
これもひとえに長いお付き合いの友人や音楽仲間に恵まれたおかげと感謝しております。
アンコールでは心を込めてI CAN’T GIVE YOU ANYTHING BUT LOVEとWHEN YOU ‘SMILEを歌わせていただきました。

甲南小学校 第26回生 八馬 立
昭和18年(1943年)卒業

八馬立アップ 1

 

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